コーヒー飲みながら不思議な話をよむ

いろんな話をあつめているよ

MENU

失恋と虐殺の武烈天皇

日本書紀」にとんでもない暴君っぷりを書かれた天皇がいる。第25代、武烈天皇だ。

古事記」では武烈天皇について、ものすごく端的に「子どもがいなかった、そのため袁本杼命が皇位継承者として招かれた」ことのみ書かれている。

それなのに「日本書紀」ではまあすごい。身の毛もよだつ残虐ぶり。少し調べると、そもそも武烈天皇が実在したかどうか、数々の暴挙が事実かどうかなどさまざまな議論があるようだ。

自分は専門家ではないため、そういった議論にはふみこまない。それよりは「日本最古の正史に記された残虐行為」「(武烈天皇の存在や暴挙が事実にせよ創作にせよ)天皇の在位時、あるいは日本書紀編纂時の知識人は、こんな行為を思いついていた」という社会史的に読んでみたい。

まずは武烈天皇がどういう人物か、日本書紀にもとづきかんたんに整理してみよう。

----

来歴
仁賢天皇の6番目の子として生まれ、仁賢天皇7年正月3日に跡継ぎとして皇太子になった。

人となり
ここでさっそく矛盾する記述が現れる。「成人すると日が暮れるまで政務をおこない、道理を重んじ罪を裁いた」という文章の直後に「多くの悪行をした、ひとつの善行も修めなかった。ほとんどすべての酷刑を自分の目でみた」とある。
どっちやねん、と思ってしまうが、判断はしかねる。ただし国民が一様に恐れ震えたことは明記されている。もしどちらも正しくて、職場ではキリッと正義にのっとり、いざ罪人が決定すると表情を一変させ酷刑を楽しんだ……だとすると、いっそう怖い。

失恋と報復
失恋にともない、政界トップだった大臣平群真鳥臣(おおおみへぐりのまとりのおみ)とその息子・鮪(しび)を討った。重要なので、くわしく書いてみよう。

仁賢天皇亡きあと、真鳥大臣は俺が天皇になるのだという野望のもと傲慢にふるまっていた。
太子(即位前の武烈天皇)は物部麁鹿火大連(もののべのあらかひのおおむらじ)の娘・影媛(かげひめ)を奥さんにほしいなと考えた。しかし実は影媛、鮪とできていた。影媛は太子に本当のことを言えず「海柘榴市の大路で待ちます」と答えた。
いざ行かんとする太子。しかし父親・真鳥大臣が気づき邪魔をする。耐えてなんとか約束の場所についた太子。影媛をかなりしつこく口説いていると、かけつけた息子・鮪、そしてはじまる男同士の歌バトル。

太子は歌バトルの途中で影媛・鮪のただならぬ関係に気づき、父子の無礼な態度にも思い至って怒り狂った。部下や兵を動員して父子をぶっ殺し、影媛は悲恋に泣き濡れた。

ちなみに父・真鳥大臣は焼き討ちに遭ったのだが、炎に囲まれ死を覚悟したとき、塩をつかって呪詛をかけようとした。しかし1種類のみ塩が足らず、呪いは失敗。太子は以後、足りなかった角鹿の海の塩のみ食用にし、呪いにつかわれた他の塩は忌んだという。

即位
先代天皇崩御が11月、政治を牛耳った真鳥大臣を討ったのも11月、そして武烈天皇は12月に即位した。春には春日娘子(かすがのいらつめ)という奥さんをもらったそうだが、古事記には奥さんの記載がない。ちなみに奥さんの父は不明とのこと。
子どもはできず、男大迹王(古事記では袁本杼命とよばれる、のちの継体天皇)が継いだ。

即位から崩御までは、残虐行為の記述で埋め尽くされている。

残虐行為

こんなことしました  
2 9 妊婦の腹を割いて胎児をみた
3 10 人の爪を抜いて山芋を掘らせた
4 4 人の頭髪を抜いて、木に登らせ、根元を切り倒して人を落とし殺すのを楽しんだ
5 6 人を池の樋に入らせ、外に流れてきたところを三叉の矛で刺し殺して楽しんだ
7 2 人を木に登らせ弓で射落として笑った
8 3 女性を裸にして馬とセックスさせた。あそこが湿っていれば殺し、乾いていたら官婢にした


あとは「亡くなりました」と書かれておしまい。ほかにも、次のような記述がある。
・鳥や獣をたくさん飼った、狩りも好きだった
・時間や天気にかまわず好きなときに出入りした
・暖かい衣服と豪華な食事、贅沢なしつらいを楽しみ人民のことを忘れた
・道化や俳優をよび淫らな音楽に溺れ酒を浴びるように飲んだ

----

武烈天皇の章を読むと、いくつか気づくことがある。

・強調される行為について:人民をないがしろにした悪政についても書かれているが、基本的には個々の人体に対する残虐行為がクローズアップされている。

・行為の理由について:憎悪で人を殺すというより、好奇心や楽しみのためにサクサク殺すようすが読み取れる。

・女性へのまなざし:胎児の取り出しや馬とのセックスなど、人体とくに女性の身体の極限へ好奇のまなざしを向けていた印象を受ける。女人嫌悪の感も強い。もしかして影媛の一件で不能になってしまったのでは、と思ってしまった。

武烈天皇の時代にせよ、日本書紀編纂の奈良時代にせよ、理由ある殺しは蔓延していたであろうから、異常性を示すためには理由ない殺しを強調するしかなかったのかもしれないね。
同じ章で百済の暴君について触れられているため、近隣国家の事例や説話との影響関係もあるだろう。

 

先にも述べたが、武烈天皇については矛盾する記述が多く、存在自体が議論の的となっている。数々の残虐行為についても、血のつながらない次代・継体天皇の正統性を主張するため書記編纂者がでっちあげたのでは、という説がある(ここまで異常性を強調するのはオーバーキルな気もするが)。
事実関係については専門家におまかせし、わたしたちはわたしたちのコンテキストから、このテキストを解釈することを楽しみたい。

権力者の残虐行為というと、古今東西ありとあらゆる話がある。いずれ、他の話との比較もしてみたいな。

参照:
小島憲之, 直木孝次郎, 西宮一民, 蔵中進, 毛利正守 校注・訳, 1996,『新編日本古典文学全集3 日本書記(2)』, 小学館.