蟹くったりくわれたり
病みあがりの、あと少しだけ安静にしていなきゃならない、という時間がけっこうすきだ。ベッドでなにをしようかな。先日体調を崩した折、ひさしぶりにインターネットの怖い話を読んでいた。
「蟹のドラム缶風呂」のページで、そういえば「諸国悪もの食い」にも蟹の話があったなあと思いだした。
インターネットの怖い話はどれもすきだけど、「蟹のドラム缶風呂」もお気に入りのひとつだ。冒頭の人情モノじみた凡庸なエピソードと、後半における海外の都市伝説的なセンスとの組み合わせが、なんだか独特の読み応えをあたえてくれる。初出はどこなんだろう。
こちらは蟹にやられる話だけど、「諸国悪もの食い」は蟹をやっちゃう話。2記事あり、まずは美味しそうな話から。
「がね味噌」とよばれる珍味で、ベンケイガニの一種とみられる、はさみが赤い小さな蟹をくだいて塩辛にする。それを汁物にし、熱いご飯にかけて食べるのだそうだ。うう、美味しそう。「がね」は蟹の方言で、「味噌」といえど味噌を入れるわけではないらしい。
どこが「悪もの食い」かというと、どうやら蟹を生きたまま臼にほうりこみ砕くのだ。うう、むごい。
東京朝日新聞, 1907-10-10, 「諸國惡もの食ひ(二十三)がね味噌(筑後柳河)」
つぎは記者が言いたい放題の「巾着蟹の酢味噌」。
現地の漁師さんが巾着蟹の肉を酢味噌にして食べるのだけど、苦味が強くて閉口した。そもそも蟹の見た目がおぞましく、食べる気にならない。とけちょんけちょんだ。
巾着蟹といってもイソギンチャクをポンポンにする例のキンチャクガニではないらしい。調べたところ、どうやらヒラツメガニを指しているようだ。記者は「平家蟹の一層嫌な形をしたもの」と描写する。ほんと言いたい放題だな。
東京朝日新聞, 1907-10-04, 「諸國惡もの食ひ(十五)巾着蟹の酢味噌(相州三崎)」
腐っても怪異ファン、つい「平家蟹」に反応してしまう。平家の怨念がのりうつったという人面蟹。蟹にまつわる怪談は数えきれないほどある。
蟹怪談のうちとくにお気に入りなのが、岡本綺堂の「五色蟹」だ。読者T君が送ってきた体験談を紹介する、という体で物語がはじまる。
東京の会社員男性3人が連れ立って伊豆の温泉旅館に逗留する。海辺でみつけた蟹をもちかえると、蟹は隣室へはいりこんでしまった。そこに宿泊していたのは東京の女学生4人。すっかりうちとけた2組の交流がはじまるが、庭に捨てたはずの蟹が、彼らの部屋や隣室にあらわれる。
「どうしてあの蟹がまた出たろう。」
「ゆうべの蟹は一体どうしたろう。」と、遠泉君は言った。
「なんでも隣りの連中が庭へ捨ててしまったらしい。」と、本多は深く気に留めないように言った。
「それがそこらにうろ付いて、夜になって又這い込んで来たんだろう。」
「あれ、見たまえ。又となりの方へ這って行く。」と、田宮は団扇うちわでまた指さした。
「はは、蟹もこっちへは来ないで隣へ行く。」と、本多は笑った。「やっぱり女のいるところの方がいいと見えるね。」
こんなふうに、はじめは蟹がうろつこうとさほど気に留めない。しかし旅館で数日過ごすうち、ある事件がおきる。
舞台が温泉旅館ということで、ゆったりした非日常感、開放感のなか物語が進む。その空気は事件で破られ、一転して緊張感がはしる。事件の怪奇さゆえに、主人公たちは東京に戻ってもなかなか日常生活に復帰できない。非日常的な温泉旅行のさきの、さらなる非日常へ連れていかれてしまったのだ。この感じ、たまらん。
物語の魅力はそれだけじゃない。女学生の中にひときわ美人がいて、主人公たちは気を引かれる。その美人をめぐる種々の因縁、解明された謎とされなかった謎とがどうにも読者の心をとらえる。そしておとずれる最後ひと段落が、胸が苦しくなるような、甘いような恐ろしいような、なんともいえない余韻を残すのだ。
蟹も大活躍である。海辺でみつけたときは、きらきら美しい蟹が主人公たちの温泉旅行への期待感を象徴するかのように描かれる。
大きい浪のくずれて打ち寄せる崖のふちをたどっているうちに、本多が石のあいだで美しい蟹を見つけた。蟹の甲には紅やむらさきや青や浅黄の線が流れていて、それが潮水にぬれて光って、一種の錦のように美しく見えたので、かれらは立ち止まってめずらしそうに眺めた。五色蟹だの、錦蟹だのと勝手な名をつけて、しばらく眺めていた末に、本多はその一匹をつかまえて自分のマッチ箱に入れた。蟹は非常に小さいので大きいマッチの箱におとなしくはいってしまった。
そこから徐々にふくらむ違和感。最後に現地の漁師から、その蟹のなんたるかを教えられる。
ほかに蟹といえば、泉鏡花の作品や映画『ツィゴイネルワイゼン』(鈴木清順監督, 1980年公開)の冒頭シーンなどがすきだ。もちろん食べるのもすき。蟹って不思議な魅力をもった生き物だなあ。